小田切 寛 JEC副理事長
2012.11.15

今年の8月、次男晃次の20回忌の集まりを行いました。
集まって下さった方々と涙を流しながらも
笑顔で次男晃次の思い出話をすることができました。 時の癒し効果を感じています。
 
次男は16歳の時、急性白血病で1年の闘病生活の後、亡くなりました。
生きていれば37歳。亡くなってからの時間の方が、生きていた時間を上回ってしまいました。
 
次男は、とても人を想い感謝することのできる高校1年生でした。
これは次男が逝ってから、2年目に書いた妻の文章(抜粋)です。
 
『ありがとう 小田切』
お墓に刻んである文字です。
あの子が亡くなった後、いつも言っていた言葉で印象に残るものは何だろう……と考えてみました。
家族全員すぐに思い立ったのが「ありがとう」でした。
 
病院始まって以来の難治性の白血病でした。
前例のない強い治療と、あらゆる手段の手当てにも効果はなく、ついに覚悟するよう言われました。
残された時間を大事にしようと家族4人病室で過ごすことにしました。
 
様々な看護の仕事も、主人と私と長男でそれぞれ自然に役割が決まり、
晃次の苦痛を少しでも和らげるため、みんなの気持ちが一つにまとまっていました。
 
ある日、私と二人になった時、
「お母さん、ボクの家族は塵(チリ)だね」
「どういうこと?」と私。
「ボクのホ・コ・リ。こんないい家族って他にいないと思うよ。感謝! 感謝!」
「……」私。
 
「神様、どうかこの子一人を遠くへ連れていかないで! 
私たち家族4人いつまでも一緒にいさせてください!”」と心の中でどれほど叫んだことでしょう。
 
先生や看護婦さん、主人や私を一度も疑うことなく、きっと治ると信じて、
あんなに苦しい治療と副作用にいつも前向きで、心静かに穏やかに、
そしてみんなに感謝しながら頑張ったのに……。
そんな晃次の気持ちに、親としては何も応えてあげることができなかったことが、
ただただ申し訳なく、「ごめんね」という想いは、2年近くたった今でも少しも消えることのない、
私の苦しみなのです。
 
でも、いつか天国でまた会おうね。
その時は、「よく頑張ったね」と力いっぱい抱きしめてあげるから……。
「もうなんにも我慢しなくていいのよ。
心ゆくまで熟睡して、楽しいことだけをして過ごしてください」。
そして会えた時には浦島太郎のお話みたいに、
「エーッ、お母さん、ずいぶんおばあさんになったんだね」。
「ボクはお母さんに会えるまで、アッという間だったョ」。
そんな風に言えたらいいなと、といつも考えています。
 
どうしてこんなに人を想って感謝することができるのだろうか、
両親でも不思議に思うくらいです。
 
小学5年生の時には、母の日に段ボール箱一杯に妻の好きな花の苗と黄金焼きをプレゼントして
くれたり、中学1年生の時には、私がバードウォッチング好きで欲しかったバードコールを誕生日に
サプライズでプレゼントしてくれたり、このようなエピソードは多数あるのです。
 
こんなエピソードを夫婦で話しながらどれだけ涙したことでしょうか。
しかし、多くの人に支えていただき、話を聴いていただいた中で気づくようになりました。
いくら時が経っても悲しみ自体は変わらないのですが、次男は私たち家族それぞれの心の中に
シッカリ生きていることを。
 
 
私も妻も長男も、次男が亡くなってから生き方を変えていきました。
私はカウンセラーになることを目指しました。
そして、新しい生き方でなにか課題に出会った時、「次男はどう想うのだろうか」が
発想の原点になっています。
私は子供に教えられているのです。
 
人の心の奥深いところで「人は誰でも、人を愛したい、愛されたい。そして、
人のお役に立ちたい、人に認められたい、褒められたい、という潜在欲求を持っている」と
言われています。
私は次男がこのことを自然に持って表せたのではないかと感じています。
 
いま私たち夫婦は次男がよく遊んだ富士山の北麓に住んでいます。
美しい夕焼けを見ては「あそこに晃次が居るね」、宵の明星を見ては「晃次星が出たよ」と言って
感動しています。
毎日の生活に、次男は存在しています。
 
我家にも多くのお客様が訪れるようになりました。
お客様と一緒に森の中を歩き、美しい富士山を眺め、富士山の霊気に触れる時、
お客様と共に癒されています。
そして、お客様とお別れの際、「ありがとうございました」と次男と共に感謝しています。