岩瀬琢郎 JEC代表理事
2018.12.15

通勤の時に使うバス停のすぐ側に、小ぶりな賃貸のワンルームマンションがあります。
そのマンションの1階の一角にゴミの集積所が作られていて、マンションの住人は
ゴミをレジ袋などに入れて、その集積所まで持ってくることになっているようです。
 
週2回ほど(別にチェックをしている訳ではないのではありませんが)中年の女性が
やってきて、ゴミの仕分けや清掃などをしています。
以前から気になっていたのですが、その女性が片づけをしながら何やら文句を言っているのです。
はじめのころは何を言っているのかわからなかったのですが、
前を通るときに少し意識すると、言っていることがわかるようになってきました。
例えば「こんなゴミの出し方をして!」とか、「誰のおかげで綺麗になっていると思ってんだ!」と言った激しい口調です。
その声は集積所の外にまで聞こえて来ることもあり、
時には、片付ける時にゴミ袋を放り投げるようなこともあります。
そのようなとき、通行人は脇によけて歩いています。
ワンルームマンションですから独り住まいの人も多く、
出勤の時にゴミ袋を放り込んで行ったり、ルール通りに仕分けをしないで出して行く人がいるのかもしれません。
時には粗大ごみとして出さなければならない家具や電化製品が無造作に置かれています。
片づけをする方からすれば、怒りや苛立ちが湧き上がってくるのも分るような気がします。
でも、その「集積所を片づける人」の仕事に手抜きはありません。
決してきれいとは言えない言葉で文句を言いながら、一生懸命に片づけしている様子が
彼女の後ろ姿に感じられます。
私が帰宅する頃には集積所の扉が閉まっているので中の様子は分りませんが、
周囲はきれいに掃き清められているでしょう。
きっと本人は綺麗好きなのでしょう。
 
不思議なもので、数か月のあいだ関心を持って見ていると、
何となくその人のことを憎めないような気持ちになってきました。
「一生懸命に仕事をしている姿にエールを送ってあげようか?」とか、
「少しでも文句が減ったらいいのになぁ」といったところです。
それに加えて「もし声をかけたら、この人はどんな反応をみせるのだろうか?」という
ちょっと悪戯めいた気持ちも出てきました。
そしてある時、その人が集積場の出口に近いところで作業をしている時、
通りすがりに思い切って後ろ姿に「おはよ~」と声をかけてみました。
声はかけたけれど、照れ臭いし、どんな反応が返ってくるかわからないので不安ですから、顔は前を向いたままで、スタスタ歩きです。
 そうしたら、声をかけられたのがわかったのでしょうか?
後ろから「おはようございます!行ってらっしゃい!」と、声が返ってきました。
きっとその人はびっくりしたのでしょう。声がかん高く、上ずっているようでした。
その時に、変な人でなくて良かったと思うと同時に「行ってらっしゃい」という言葉が
ついてきたことで、彼女が気持ちよく受け取ってくれたのだとも思いました。
私の出勤時間は多少幅があるので、定期的ではありませんが
その人が出口近くで仕事をしているときになるべく声をかけるようにしています。
その時には彼女も同じように「おはようございます。行ってらっしゃい」と返してくれるようになりました。
私の狙い(?)はそれではありません。
その人には失礼ですが「彼女がなにか変わるかな?」というところに興味がありました。
 
結果は…… 変わったのです。
少なくとも悪態は聞こえなくなりました。
言わなくなったのか?声を小さくしたのか、分りませんが、
その後そのような声を聞いていません。
 
もう一つエピソードがあります。
ある朝バス停に並んでいたら、目の前に止まったバスからその人が降りてきて顔を鉢合わせしたのです。
私はその人がバスで通ってきていることも知りませんでしたし、
その人の後ろ姿や横顔しか見ていません。その人は私の後ろ姿しか見ていないはずです。でも、顔を合わせた瞬間に「あっ、この人!」といった空気がお互いの間に流れました。私はためらわずに「おはようございます」と声をかけてみました。
その人もニコッと笑って「おはようございます。行ってらっしゃい」と返してくれました。人違いでなくて良かったです。
これまた失礼な話ですが、私は文句を言いながら仕事をしていた人の顔を勝手に想像していたのですが、穏やかな顔つきで、何よりも目が優しそうだったのが印象的でした。
それと、バス停に並んでいた人が一斉に私の顔を見たことです。
乗客の何人かは、その人がブツブツ文句を言いながらマンションのごみ集積所で働いているのを知っているのでしょうか。
その人と私が突然挨拶をしたことで「なんだ、こいつ?」とでも思ったのでしょうか。
そんなことはどうでもよくて、私はお腹の中で「ふふふ…」と笑いたくなりました。
周囲の人の反応に、予想もしていなかった快感が湧き上がってきたのです。
 
その後も交わす言葉は「おはようございます」と「おはようございます」、
「行ってらっしゃい」だけです。
それだけでお互いに朝の気分がちょっと良くなるのだから十分です。
挨拶をしてバスに乗ると、いつも頭の中に「♪ど~この、だれかは、し~らな~いけれど~、だ~れもがみ~んな、し~っている~♪」」という、懐かしい月光仮面の歌が浮かんできました。